既に描かれている未来に向かってどう話が進んでいくのかを楽しむ…ということに対するただの戯言

アリソンシリーズはメグとセロンから入った私です。

メグは、わたしを気にせずに、セロン君と仲良くやりなって。せっかくペアになれたんだからね。
リリアとトレイズ[V]私の王子様<上> P27より

引用はメグとセロンの前の作品リリアとトレイズから。また、当のメグとセロンにも1巻冒頭にこのダンスの場面が書かれています。
で、メグとセロンの本編自体はどうなのか…と言えば、まだそこまで2人は親密な仲では無かったりします。
そもそもメグとセロン本編はダンスパーティーの9ヶ月程前の話です。まだセロンがメグのことを片想いしているものの声さえ掛けられないままズルズル時間が過ぎて行って、メグはセロンのことはほとんど知らなくて…という状態から始まります。
つまりメグとセロンの終わりはもう決まっているわけですよ。両想いまでは行かずとも、最低限ダンスのペアになるまでの仲に2人がなる。そこで物語は終わるわけです。
まぁそこで終わらなくても別にいいんですが、1巻の冒頭でダンスの場面が出ているので、まぁここが終焉でしょうね。
ハヤテのごとく!という作品にもこの未来が先に描かれるという現象が一つありますね。ご存じヒナハムのGW旅行話です。
マンガにはあまり無いように思いますが、これは小説的には当たり前の技法なのでしょうかね?
で、私は今日風呂に入っているとき、未来…というか結末が描かれているわけですから、それは一種のネタバレのような気がしたんですよね。
ネタバレなんてされようものなら一気に進める気がなくなってしまい、場合によっては烈火の如く怒り狂う昨今の私ですが(何を進めるのかについてかは言及しない)、昔はネタバレしようが全然平気だったんですよね。むしろネタバレバッチ来いでした。ネタバレによって先の話がわかってしまっても、どうそこに話を持っていくのか楽しみで仕方がなかったのです。


そこに何の差があるのか…といっても私は心理学者でも何でもないし、それに自分の心理についてなんか考えたこと無いので分からないのですが、私の心境に何らかの違いがあるはずなんですよ。
じゃあネタバレに対して烈火の如く怒る私は、この未来を先に描く手法が嫌いかというと、そうでもないんですよねぇ…なぜか
この記事は考察する記事ではなくただの戯言なので、もっともらしい回答を用意していません。小説家って不思議だねぇ…というだけの記事です。


作者によるネタバレだからでしょうか?公式なものだから許せるのだろうか…。
いや、もしかしたら小説家には前述の私の心境の変化の秘密なんて分かっていて、どういうネタバレはOKでどういうネタバレはNGなのか…意識的にせよ無意識にせよその差を書いているんじゃないのか?
となると小説家ってやっぱすごいねぇ…に帰依してしまう。えぇい!私がもうあと少し賢かったら!!



誰か教えて下さい…なんてね。明日また風呂のときに妄想してきます。